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Taipei Confucius Temple Confucian Culture

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張載

張載(1020年 - 1077年)中国・北宋時代の儒学者。字は子厚、横渠先生と称された。

陝西省関中の出身。1057年に38歳で進士に合格して、河北・陝西・甘粛などの地方官を歴任し、1069年50歳の冬に朝廷に召されたが、王安石の新法に反対し、翌年病気を理由に帰郷、読書と思索に没頭した。1077年にも朝廷に召されたが志を得ず、その年の冬に辞職し、帰郷の途次に亡くなった。

「天地のために心を立て、生民のために道を立て、去聖のために絶学を継ぎ、万世のために太平を開く」という語で察せられるように、豪傑の性質を持つ。若い頃は兵法を好み、政治に情熱を燃やしたが、范仲淹に諭され『中庸』を授けられたのをきっかけに儒者に転じた。仏教・老荘の教えに一時心酔したが、1056年に国都・開封で甥にあたる程氏兄弟(程顥・程頤)と出会い、儒者としての自信を確立したという。それまで虎の皮に座って『易』の講義をしていたのが、二程氏の『易』論を聴いて感服し、潔く虎皮を撤去して、門人たちを二程氏に師事させたという逸話がある。

張載は『易』『中庸』に依拠し、万物の生成を陰陽二気の集散によって説明し、「太虚」をその本体とした。太虚は無形であり、気は有形だがこの両者は一物両体、太虚即気という緊密な関係にあるという気一元の哲学を樹立した。太虚と気による二元論は周敦頤より発展しているが、「太虚」説は宋学の主流とはならなかった。ただし、王陽明や日本の大塩中斎には大きな影響を与えている。

主著として『正蒙』『西銘』『東銘』『経学理窟』『易説』などのほか若干の詩文と語録があり、『張氏全書』に一括して収められている。
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